古代から湧水をたたえる三宝寺池
石神井は、三宝寺池の湧水や石神井川の豊かな水流に恵まれた地であるため、旧石器時代から人々はその恩恵を受け、水と関わりながら暮らしてきました。
日本には池や川に関する伝説が数多く存在しますが、枯れることのない水源である三宝寺池にもさまざまな伝説があります。
例えば、三宝寺池には古代から主がいると信じられてきました。明治8年、山養(さんよう)という人物が、「三宝寺池で大龍を見た」という人から聞いて描いたという絵が三宝寺に残されており、その絵を掛けて祈れば、干ばつの時に雨が降るという言い伝えも…。
三宝寺池
また、三宝寺に眠るお宝伝説も、多くの人々の興味をかき立ててきました。
中世に石神井川流域で勢力を増した豊島氏は石神井城を築きますが、太田道灌に攻められ、最期を悟ると、家宝「金の乗鞍(のりくら)」を置いた白馬にまたがり、城の背後にある三宝寺池に身を沈めたと言われています。この「金の乗鞍」を見つけようと、人々はこれまでに何度も宝探しに挑んできました。
明治41年には、地元から村知事の許可を願い出て大規模な池の捜索が行われましたが、未だ宝は見つかっていません。まだチャンスはあるかも!?
三宝寺池のそばにある石神井城跡の石碑
「石神井(しゃくじい)」という地名は、中世にはすでにあったことが資料からわかっています。石神井神社のご神体である石剣が井戸から出土したことから、村名を「石神井村」と称するようになったと言われていますが、諸説あるようです。
ちなみに昔の人は、石神井を「しゃくじい」ではなく、「しゃくじ」と発音していたそうですよ。
石神井神社。石神井公園駅から徒歩10分くらいの住宅地の中にあります
江戸時代から注目されていた景勝地
江戸時代になると、石神井エリアの開発が進み、農業が営まれるようになりました。
その頃には、石神井周辺は江戸近郊の風光明媚な場所として知られるようになり、水戸藩主の徳川頼房や、三代将軍・徳川家光が鹿狩りに訪れることもありました。
家光が狩猟の際に立ち寄ったという伝承から、「御成門」とも言われる三宝寺の山門は、2025年3月に区の指定文化財となりました。
三宝寺山門 1955(昭和30)年頃 〔練馬わがまち資料館より〕
明治末期以降は、東京郊外の案内書に、武蔵野の風景が楽しめる場所として練馬が紹介され、都市部の人々から注目を集めるようになりました。
武蔵野鉄道の開通で、石神井が人気の観光スポットに!
そのなかでも石神井が大きく発展するきっかけとなったのが、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の開業です。1915(大正4)年の池袋駅〜飯能駅の開通にあたり、地元の人々は無償で駅の用地を提供するなど敷設に尽力。鉄道へ大きな期待を寄せていたことがわかります。
石神井駅(現・石神井公園駅)の開通を記念して地元の人たちが建てた「石神井火車站之碑(かしゃたんのひ)」は、今も石神井公園駅前に残っています。
1921(大正10)年頃の石神井駅前。向かって左後方に「石神井火車站之碑」が見えます 〔石神井公園ふるさと文化館提供〕
石神井に観光客を呼び込むため、鉄道会社も地元の人たちと協力してさまざまな取り組みを展開し、石神井は東京近郊の観光スポットとして脚光を浴びるようになります。
1955(昭和30)年頃の石神井公園駅 〔練馬わがまち資料館より〕
日本初の100mプールからオリンピック選手が誕生!
1918(大正7)年に観光スポットの目玉として造られたのが、三宝寺池の北東の用地を使った日本初の100mプール、府立第四公衆遊泳場(通称:石神井水泳場)です。きれいな水が豊富にあった石神井独自のアイデアと言えますね。でも、湧水だったため、とても冷たかったそうです。
プールを訪れるお客さんのため、石神井公園駅から水泳場まで無料送迎バスが運行されていました。当時はまだ車が珍しく、バスでプールに到着すると、駅まで歩いてまたバスに乗って…を繰り返していた子どもが運転手に怒られた、なんていうエピソードもあったようです。
石神井遊泳団のプールサイドでの記念写真 1921(大正10)年 〔石神井公園ふるさと文化館提供〕
オープン当初のプールは、板で囲われ、底に砂利が敷かれただけの簡易な造りで、「泳ぐと泥だらけになる」という不満も多く寄せられたようですが、1922(大正12)年にコンクリート化の工事が行われ、長さ100m・幅12m・水深2mの本格的なプールへと変貌を遂げました。
石神井水泳場で行われた水泳競技大会の様子 1932(昭和7)年頃 〔石神井公園ふるさと文化館提供〕
当時このプールで、石神井小学校の校長の田中八十吉さんが指導していた石神井遊泳団が、なんと全国少年水上競技大会で優勝! 石神井遊泳団のメンバーの1人、武村清さんは、1932(昭和7)年のオリンピックロサンゼルス大会で代表選手に選ばれました。
プールの営業は夏だけでしたが、石神井遊泳団は冬も寒中水泳をしていたとのこと。冷たい湧水で鍛えられた成果だったのかもしれませんね。
三宝寺池の変遷
1922(大正11)年には、観光客を呼び込むアイデアとして、三宝寺池のほとりの石神井城跡に、滝壺遊びを楽しめる高さは5mほどの人工滝が造られました。今でも石神井城跡の石碑の横に、人工滝の名残である石積みが見られます。
人工滝があった場所に残る石積み
さらに三宝寺池では、なんと水上自転車の営業も行われてました。これが、現在の石神井池のボートの始まりだったのかも!?
ちなみに、三宝寺池の東側にある現在の石神井池(ボート池)が造られたのは、1934(昭和9)年です。
三宝寺池で水上自転車に乗る人たち。1922(大正11)年7月から11月にかけて営業されていました 〔石神井公園ふるさと文化館提供〕
石神井水泳場の営業は1941(昭和16)年まで続きましたが、戦時中に閉鎖され、1956(昭和30)年に「石神井釣道場」という釣り堀になりました。夏でも摂氏15℃という水の冷たさを利用して、ニジマスが放流されていたそうです。釣ったニジマスは塩漬けにし、ビニール袋に入れて持ち帰ることができました。
釣り堀は1986(昭和61)年に閉鎖。跡地をどう活用するか話し合いが行われ、かつての三宝寺の豊かな自然環境を復元させるため、1989(平成元)年に「水辺観察園」が開設されました。この時から現在に至るまで、水辺の植物の維持管理を行っているのが、地元のボランティア団体「石神井公園野鳥と自然の会」です。
一方、湧水をたたえた三宝寺池には珍しい沼沢(しょうたく)植物が生息していたことから、1935(昭和10)年、「三宝寺池沼沢植物群落」として国の天然記念物に指定されました。
昭和30年代以降、急激な都市化に伴う湧水の減少により水質の悪化が進み、貴重な植物が多く消滅してしまいましたが、環境回復のために水質管理が行われ、カキツバタやミツガシワ、コウホネ、ハンゲショウなどが見られるようになりました。
三宝寺池沼沢植物群落
文士たちを魅了した武蔵野の田園風景
武蔵野鉄道の開業により都心部から郊外へのアクセスが良くなると、武蔵野の田園風景を求めてハイキングや日帰り旅行を楽しむ“武蔵野散策”がブームになりました。
自然豊かで牧歌的な雰囲気の石神井は、当時の文士たちの心もがっちり掴んだようで、昭和10〜20年代にはさまざまな文人がこの地を訪れています。
高浜虚子が主宰した俳句雑誌「ホトトギス」の同人たちは、武蔵野の寺社や、山川、湖沼を訪れては俳句会を行っていました。自然豊かな情景をはじめ、大根を干す光景や、肥やしを運ぶ様子さえも句に詠むほど、お気に入りの田園風景だったようです。
作家の檀一雄は、友人の太宰治らと三宝寺池の散策にやってきた際、この地を気に入り、のちに居を構えました。
照姫伝説の真偽はいかに!?
昨年の照姫まつりの様子。興(こし)に乗った照姫の行列が石神井公園の緑に映えます
石神井と言えば、練馬の二大まつりのひとつ、「照姫まつり」の開催地。改めて照姫伝説のルーツをたどってみましょう。
三宝寺池北側の松林にある「姫塚」は、石神井城落城時に城主の豊島泰経と共に池に身を投げた娘を祀った塚とされていますが、もともとは室町時代の三宝寺の僧、照日上人(てるひしょうにん)にちなんだ「照日塚(てるひづか)」があった場所でした。
遅塚麗水著『照日松』の照日姫 〔石神井公園ふるさと文化館提供〕
1896(明治29)年、この照日塚から着想を得た小説家の遅塚麗水(ちづかれいすい)が、石神井城落城時に関わる姫君の悲話を創作し、小説『照日松』を執筆。このなかでは、京の公家の娘である照日姫が、豊島泰経の弟である豊島泰明と恋仲になるという設定。太田道灌との戦いで泰明は討死にし、照日姫も後を追って死んだというストーリーです。
これを発端に石神井城落城の秘話が広まり、武蔵野鉄道開通後の観光ブームに乗って照日塚は「姫塚」として定着していきました。今では「殿塚」と合わせて、照姫伝説の聖地(!?)として知られるようになりました。
三宝寺池の北側にある姫塚(左)と殿塚(右) 〔石神井公園ふるさと文化館提供〕
照日姫の悲恋を照姫と重ね合わせながら、三宝寺池やそこに広がる自然豊かな土地の歴史に思いを馳せれば、照姫まつりがさらに楽しくなるのではないでしょうか。
四季折々の石神井の魅力
最後に、石神井の魅力について、石神井公園ふるさと文化館の副館長、渡邉嘉之さんにお聞きしました。
「今でも住宅街の中に残っている自然ですね。特に三宝寺池の周辺は、住宅に囲まれていることを感じさせないほど自然と一体化しているすてきな場所です。4月はミツガシワ、5月以降はカキツバタやコウホネ、ハンゲショウなどさまざまな水生植物を見ることができたり、冬には何種類ものカモが渡来したり。季節ごとに楽しみが変わるので、その都度ぜひ足を運んでいただけたらうれしいですね」
現在も23区とは思えないくらい自然豊かな石神井。湧水がもたらしたこの土地をいつまでも守っていきたいと思いました。
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